2010-01-01から1年間の記事一覧

絶望の序曲

朝になると、ぼくの身体のなかに絶望の序曲が流れ出す。すべてが嫌になりかつおっくうになるのである。正午を過ぎたあたりからようやく頭脳がゆっくりと転回し思考が始まるそれまでは、自然の慣性の法則に則って身体を操っているのである。自然の法則にどう…

ブログ

このブログは大学がお休み期間限定のブログらしい。大学のパソコンで書こうとしても何故か書くことが出来ない。それは、ネットワークの問題である。その理由がわかっていれば問題はないであろう。しかし、いつ、どこで、だれが観ているかわからないネット媒…

ブランド

ぼくはブランドものに対する感覚がずれているらしい。来ている物はすべて安い物か丈夫なものを選ぶことにしている。しかし、丈夫なものほど値段は上がる。それをどこまで追求するかはひとそれぞれの好みの問題である。極寒のヒマラヤ山脈を登攀するならば一…

沈黙の言葉

言葉を発するとき潜るときがある。それは、自己の経験を過去の出来事のなかに照らし合わせて発しようとしているのであろう。それはまるで、フリーダイバーが潜る行為にとてもよく似ている。自己から他者に某かの思いを伝えようとするとき「沈黙の時間」がな…

ドラマコラム 『結婚できない男』

このドラマの主人公はぼくの写し鏡である。毎日、TSUTAYAへ行きDVDを借りて観る。そしてクラシックを他者の迷惑を顧みずがんがんと鳴らす。しかし、ちがうのはドラマの主人公が一流の建築家であり、ぼくは只の阿呆学生であるという点である。しかも、主人公…

ギリシアの種

古代ギリシアの種は日本古来の伝統と通じるものがあるのはあるまいか。田中美知太郎先生の文体から<醸し出される>「雰囲気」は最も古代ギリシアの種と日本古来の伝統と通じるものがあるであろう。 漢文の世界で思索した夏目漱石先生に似ているようである。…

責任

ぼくは或る先生の友人の存在をわすれることができない。そして、恩師のW先生の存在も忘れることが出来ないのである。なぜならば、或る先生の友人は美学を学んでいた。その美学のことは、ぼくは知らない。しかし、その美学をぼくなりに具現化することは不可能…

能楽

能楽堂は京都にいくつかあることをぼくは知っている。能楽はとてもおもしろい。まるで、オペラのようである。ワキ、ツレ、シテで構成された役者が舞う、謡うのである。しかし、能楽に意味を見出してはならない。能楽は好きあるいは嫌いかの問題なのである。 …

倒立の効能

倒立を日常生活にくわえると人生が豊かになる。なぜならば人間は通常天に頭をむけて生きているが倒立という非日常の行為を日常にくわえることによって物の見方が変わるのである。その代表例が我が叔父であろう。叔父はきわめて論理的な思考の持ち主であり、…

倒立

倒立は体操競技においてみどころのひとつである。体操競技は全て倒立にはじまって倒立でおわると言っても言い過ぎではない。床・鞍馬・鉄棒・平行棒・吊り輪・跳馬のすべての空中局面という身体が空中に放たれた状態にあるときに真っ直ぐな倒立ができていな…

ブログ復活。

5月のゴールデン・ウィーク期間において、ブログを復活することができた。なぜならば、大学のパソコンを使うことが出来なかったためである。それは、アカウントを正式に習得しなかった阿呆なぼくの責任である。そして、今回からは論理展開に細心の注意をはら…

ドストエフスキーとハイデガーの思索を紡いでの「家族」を考える

「家族」について考える時、ドストエフスキーの作品を抜きにして考えることはできないです。そして、『ニコマコス倫理学』と『聖書』も「家族」について、もっと深く言えば<家族の在りかた>。ドストエフスキーはぞんざいな言い方になってしまうのですが、…

加藤澤男さん

ぼくの叔父の恩師は加藤澤男さんです。ぼくは加藤澤男さんのことを尊敬しています。阿呆なので手紙も書きました。加藤澤男さんのすごさはみるものにつたわる花の思想にあるとぼくは考えています。花の思想、それは世阿弥の『風姿花伝』に由来します。 「初心…

不眠

ぼくは夜ぐっすり眠りたいです。なかなかぐっすり眠ることができません。なぜなら、夢をみたり、コーヒーを7時頃飲んでしまうためです。理由がはっきりしているならば、解決することができるはずなんですが、困った事にどうしようもないのです。 そのために…

ものを書くとはどういうことなのか。

川上未映子さんの言葉に対する感覚はからだそのものです。たぶん、倫理観をからだのおくそこに持っているので、あのような文体が生まれるのではないでしょうか。川上未映子さんは日本大学の通信教育で倫理学を学びました。現在でも、倫理学者である永井均先…

ドラマコラム 『さよなら、小津先生』

田村正和さんは独特の存在です。ニーチェを思い出します。不良債権の処理のエキスパートである小津は仲間の裏切りによって職をうしなってしまいます。しくしくとなくシーンがなんともいえません。ぼくはなんどもなんども泣きました。上司に向かって 「死にも…

はいだしょうこさん

はいだしょうこさんはぼくはすごいとおもいます。声がすごいというよりも、存在感がすごいんです。あらわれたときにこどもの眼の色がかわってしまいます。ながねんの積み重ねがあの存在感を生み出すのでしょうか。阿呆なぼくにはわかりません。宝塚音楽学校…

映画コラム 『ベルリン天使の詩』ヴェム・ヴェンダース監督作品

天使ふたりがよもやま話をしてわけがわからない、とぼくは一回目観たとき思いました。二回目もうーんむつかしいわからないとおもいました。三回目もわからなかったです。しかし、映画はみるものです。わかるとかわからないとかの問題ではないかもしれません…

キエフ

京都の京阪電車の祇園四条駅をおりて、てくてく歩くと「キエフ」という名のロシア料理店があります。ロシアのピロシキや紅茶のなかにジャムが入ったロシアンティーが美味しい。机にはロシアの地図が書いてあり、簡単なロシア語が紹介されています。 ぼくは酒…

ドストエフスキー演劇化について

ドストエフスキー作品群を朗読劇あるいは演劇として大谷大学でやりたいという野望(?)を抱いています。ドストエフスキーの作品は大谷大学の西谷啓治先生や滝沢克己先生が自らの思索の源泉としました。そのためには、健康管理(鬱病がつきまとう)を厳重に…

映画コラム 『サガン -悲しみよ こんにちは』ディアーヌ・キュリス監督作品

この作品はぼくが京都シネマで観た映画です。若くして文学界に躍り出たフランソワーズ・サガンは、ものかなしい雰囲気をかもしだしているようにおもえてなりません。 フランソワーズ・サガンさんは若くして人生の最高の果実を味わってしまいました。 『悲し…

映画コラム 『耳をすませば』近藤喜文監督作品

この映画には読書好きな少女とバイオリンを弾くのが上手な少年があらわれます。読書好きな少女にはお姉ちゃんがいて、大学に通っています。現実的な考え方を持っています。読書ずきな少女はバイオリンを弾くのが上手な少年の存在を読書カードで知ります。運…

哲学科の先輩方②

倫理学の先生の研究室にて: ふたりの先輩とぼくが研究室にいる。コーヒーがあり、コップが3つ在る。 コーヒーが先生の手でこぷこぷとそそがれる。なんとも仰々しい光景である。先輩A「だめだよ・・・・カイロは振らないと」先生「そうだよ、お守りみたいに…

哲学科の先輩方①

一回生(一回目春から二回目)ぼくは先生の研究室に存在した時間のほうが、授業に出席していた時間よりもはるかに長かったです。これでは進級できるはずもないですね。そこではお菓子を食べたり、コーヒーを飲んだりしました。先輩がいたときも多く、女性の…

教職について

教職はぼくが阿呆なためまったく単位を取ることができなかった。再びの一回生になったときどうすべきかまた考えてしまう。叔父の後追いをしてはいけない、という思いが頭をよぎる。生徒の人生に関わるという責任をぼくは負うことができるか、否かであしどめ…

もうすぐ新学期。

もういくつ寝ると大学の新学期です。ぼくは新学期だぁ、どきどき、わくわく・・・・・とした歓喜の思いとあーめんどうだ、おっくうだ、また1年やるのかよぅ・・・・とした絶望の思い両方抱いています。 とある本に新入生は「はじめの一週間は疲れる」と書い…

青線がんがん。

ぼくは本に線を引くときに青線あるいは鉛筆の線を引くことにしています。線を引く読書と線を引かない読書、一体どのような違いが有るのでしょうか?阿呆なぼくには未だに分かりません。 もしかすると、ハイデガーさんの師のフッサールさんの思想にそのヒント…

ノートを書く

ぼくは「ニコマコス・ノート」と「ドストエフスキー・ノート」を書いていこうと考えています。このノートはできるだけ長期におき書き続けていきたいと考えています。書き抜きであったり、おもいついたことのメモだったり、首尾一貫しないとおもいますが、あ…

お茶目な古畑任三郎さん

古畑任三郎さんは正義感がつよいです。しかし、お茶目な一面も有ります。歯科医師が犯人の回(大地真央さんゲスト出演)に病院の待合室で古畑任三郎さんは親子づれと待ちます。そのとき母親が歯が痛いことを嘆く我が子にたいして魔法の呪文を教えるのです。 …

夏目漱石先生と神経衰弱

夏目漱石先生は神経衰弱と胃弱に悩まされました。神経衰弱は現代で言い換えるならばうつ病です。夏目漱石先生は神経衰弱の苦しみを文学へと昇華したのです。 夏目漱石先生は英語教師でもありました。愛媛県に英語教師として派遣されます。その経験は『坊ちゃ…