絶望の序曲

 朝になると、ぼくの身体のなかに絶望の序曲が流れ出す。すべてが嫌になりかつおっくうになるのである。正午を過ぎたあたりからようやく頭脳がゆっくりと転回し思考が始まるそれまでは、自然の慣性の法則に則って身体を操っているのである。自然の法則にどうやっても人間は打ち勝つことができないと同様に人間が決定権をもった法則もまた人間をこえることは難しい。しかし、論理の力、言い換えるならば感情をロゴスに変えたsoundな論理であるならば、人間が決定権を持った法則に新たな法則を書き加えることが可能である。しかし、そのことはかなり難しいことである。先行研究の全てに眼を通し、剽窃の地雷を踏まないように注意しなければならないのである。
 だか、無意識のうちに書いている本人が剽窃をおこなっている、あるいは剽窃とみなされる文章を書くことも否定することはできない。なぜならば、人間は他者と関わりながら生きているためである。他者の影響を受けながらいきているためである。そのことは生き生きとした現実である。この文章を書いているぼく自身でさえ、他者の影響を受けてこの文章をかいているのだから。

ブログ

 このブログは大学がお休み期間限定のブログらしい。大学のパソコンで書こうとしても何故か書くことが出来ない。それは、ネットワークの問題である。その理由がわかっていれば問題はないであろう。しかし、いつ、どこで、だれが観ているかわからないネット媒体の責任はすべて書いている自己にある。そのことだけは確実なことである。そうであるならば、やたらめったら書く必要性はないであろう。したがって、大学のお休み期間限定のブログというものもなかなかオツなものともいえなくもないだろう。

ブランド

 ぼくはブランドものに対する感覚がずれているらしい。来ている物はすべて安い物か丈夫なものを選ぶことにしている。しかし、丈夫なものほど値段は上がる。それをどこまで追求するかはひとそれぞれの好みの問題である。極寒のヒマラヤ山脈を登攀するならば一流ブランドの山岳用品でなくては命が危ない。バーゲンセールで買ったスニーカーでは確実に下山できないであろう。そしてザイルは仲間の運命を左右する大切な道具である。「こいつの命におれは責任もてない」と思う人間はホームセンターで買ってきたしろいロープでかまわないかもしれないが、「こいつは死なせたくない」と思うなら一流のザイルを選ぶはずである。人間の生命が関わるとブランドへのこだわりがうかがわせられるようである。

沈黙の言葉

 言葉を発するとき潜るときがある。それは、自己の経験を過去の出来事のなかに照らし合わせて発しようとしているのであろう。それはまるで、フリーダイバーが潜る行為にとてもよく似ている。自己から他者に某かの思いを伝えようとするとき「沈黙の時間」がながれる。その時間は自己と他者のあいだで信頼関係がなければたもたれない。なぜならば、我慢できず、言葉を発してしまうこともあるためである。
 「沈黙の時間」のあいだにおいて、他者の考えていることを考慮しているのかまたは自己がなにを発するのか考えているのかそのどちらかに絞られるならば、ぼくは後者の場合が多い。話すことが苦手なためだ。そのために未だに関西弁にそまっていないのである。。
 映画や小説や哲学書は言葉、そう言葉を発しないためにぼくの身体のなかにゆっくりワインの澱の如く沈殿するのであろう。その経験を文章表現のなかでいかしていきたいのである。なかなか難し事ではある。「語りえぬものには沈黙しなければならない」世界なのだから、ぼくはその「語りえぬもの」に耳をそばだてて聞き書き記すのである。時間もかかるし精神的にきついものがある。
しかし、やってみる価値はあるであろう。

ドラマコラム 『結婚できない男』

 このドラマの主人公はぼくの写し鏡である。毎日、TSUTAYAへ行きDVDを借りて観る。そしてクラシックを他者の迷惑を顧みずがんがんと鳴らす。しかし、ちがうのはドラマの主人公が一流の建築家であり、ぼくは只の阿呆学生であるという点である。しかも、主人公は部下を顎で使う、その統治力には眼をみはるものがある。これは部下のこころを熟知していなければできないわざである。アル意味上記の行為が部下の統治に某かの役目をはたしているかもしれない。となると、ぼくの現状の行為も未来のこどもたちに影響を及ぼす可能性がまったくないとは言い切れない。
 

ギリシアの種

 古代ギリシアの種は日本古来の伝統と通じるものがあるのはあるまいか。田中美知太郎先生の文体から<醸し出される>「雰囲気」は最も古代ギリシアの種と日本古来の伝統と通じるものがあるであろう。
 漢文の世界で思索した夏目漱石先生に似ているようである。文学の世界は他者を近づけない「雰囲気」がある。それはきっと、<閉じた>世界であるためであろう。他者との交流をさける文体は硬く、そしてごつごつしているのだ。それにくわえてやたらと自己のことばではなく、他者のことばをかりてきたもので構成された借り物文学である。
 ぼく自身その傾向が強かったので自覚できる。文学の世界は<開く>ことが肝心金目である。<開く>とは語学力に裏打ちされた豊饒な日本語の力である。<開く>文学は他者の生命の奥底に眠っている才能をこんこん、と扉をたたき目覚めさせる。
 世界文学であるならば、ロシアであるならばドストエフスキーあるいはトルストイ、ドイツではゲーテトーマス・マンそしてフランスではマルセル・プルーストである。ギリシアではなにをおいてもプラトンの作品にひけをとるものはないであろう。古代ギリシアの種は世界文学の源泉である。そのためにも、ぼくは古代ギリシアの種をまなんでいこう、と考えているのである。

責任

 ぼくは或る先生の友人の存在をわすれることができない。そして、恩師のW先生の存在も忘れることが出来ないのである。なぜならば、或る先生の友人は美学を学んでいた。その美学のことは、ぼくは知らない。しかし、その美学をぼくなりに具現化することは不可能なことではんない。なぜならば、生き生きと21歳という年齢で今、生きているためである。ぼくはぼくなりの思想でぼくの美学を人間の「雰囲気」とカクテルして卒論にまとめたいのである。
 困難な問題が山積しているが、おこなう価値はあるとおもわれるであろう。『アリストテレスの芸術論』竹内敏雄著、弘文堂と『アリストテレス ニコマコス倫理学朴一功訳、京都大学出版会である。これは思索の上で核となる。そして、精神病理学の思想、
木村敏先生の著作集、木村敏先生は音楽と西田幾多郎先生の思想を通して臨床精神医学から臨床哲学そして人間学を大成しつつある。現在の精神医学世界は、薬物療法がはびこって患者の<語り>に耳をかたむけることが、ないがしろにされている。此の問題は
非常に由々しき問題だと思われる。
 そして、臨床心理士との連携プレーも問題がある。臨床心理士は科学と統計学で糠床育てられた人間が多いのである。そうではなく、意志をもった優秀な臨床心理士がいないとも言い切れないが、少数派に属するであろう。もし、問題の本質があるとするならばそれは優秀な臨床心理士を育成する指導教官があまりにも少ないことである。そして「臨床心理士」という名称にも問題があるであろう。真摯に取り組むには「心理」では弱すぎる。「哲学」でなくてはならないであろう。
 現在、「臨床哲学」が提唱されている。これがもっと発展し、学校教育に導入されることおよび精神医学において導入されることをぼくは切実に望んでいる。これらのことが、現実に実現できれば或る先生の友人の存在についての責任をはたすことができるのではあるまいか。