沈黙の言葉

 言葉を発するとき潜るときがある。それは、自己の経験を過去の出来事のなかに照らし合わせて発しようとしているのであろう。それはまるで、フリーダイバーが潜る行為にとてもよく似ている。自己から他者に某かの思いを伝えようとするとき「沈黙の時間」がながれる。その時間は自己と他者のあいだで信頼関係がなければたもたれない。なぜならば、我慢できず、言葉を発してしまうこともあるためである。
 「沈黙の時間」のあいだにおいて、他者の考えていることを考慮しているのかまたは自己がなにを発するのか考えているのかそのどちらかに絞られるならば、ぼくは後者の場合が多い。話すことが苦手なためだ。そのために未だに関西弁にそまっていないのである。。
 映画や小説や哲学書は言葉、そう言葉を発しないためにぼくの身体のなかにゆっくりワインの澱の如く沈殿するのであろう。その経験を文章表現のなかでいかしていきたいのである。なかなか難し事ではある。「語りえぬものには沈黙しなければならない」世界なのだから、ぼくはその「語りえぬもの」に耳をそばだてて聞き書き記すのである。時間もかかるし精神的にきついものがある。
しかし、やってみる価値はあるであろう。